七宝の歴史
シルクロードからの伝来
日本に現存する最古の七宝、古墳時代末期の牽牛子古墳の棺金具、有名な奈良時代の正倉院御物「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」、平安時代の宇治平等院鳳凰堂扉金具。これらの七宝はシルクロードによる交易の伝来品か一部の渡来人の技術によってもたらされたとされる。
その証拠に平安時代以後七宝の伝承は見られない。
桃山時代末期、慶長年間、朝鮮の技術者より平田彦四郎道仁が七宝の技術を学び、日本人による七宝製作が始まった。この頃の七宝は泥七宝といわれ、今のような艶のある七宝とは違っていた。
平田家は、江戸時代に幕府の七宝師となり桂離宮中書院の襖の引き手など建築金具に作品を残している。その後、相伝により江戸時代初期を中心に日光東照宮、名古屋城の釘隠し、引手などの一部に七宝が施され製作された。
しかし、特殊な用途と閉鎖的な伝承により技術が広まることはなかった。
尾張七宝の祖、梶常吉
江戸時代の末期(天保年間)尾張藩士の次男として富田(現在の名古屋市中川区)で生まれた梶常吉は、七宝の製作を志し苦難の末、オランダ渡りの七宝皿を研究して製法を発見、現在の尾張七宝(有線七宝)の基礎を作った。
その伝統は今も愛知の伝統工芸品として息づいている。
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日本の七宝、世界へ
梶常吉よりの七宝はあまり光沢のないものであった。明治時代に入り、ドイツの技師、ワグネルが伝えた技法をさらに改良し、精緻で華麗な七宝を生み出す名工が輩出、万博などを通じて世界を驚かせ絶賛を浴びる日本の七宝が誕生することになります。