安藤七宝店について
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愛される七宝を、 この時代にも。
安藤七宝店の歴史
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安藤七宝店は1880年(明治13)9月15日に名古屋・玉屋町に開業しました。
文明開花が軌道にのってきたこの時代ですが、多くの老舗業は堅実な商法を守るという考え方であったため、前身となる煙管(キセル)商から七宝焼産業への転身は周囲からも大きな冒険とされました。 -
安藤七宝店の創業者である安藤重左衛門は、当時24歳の若さでした。この時代は尾張七宝の開祖・梶常吉の系統をひく泥七宝時代から豪華典雅な近代七宝への移行期にあり、各国の万国博覧会に七宝焼が出品され、輸入がさかんに行われた時期でした。重左衛門は1889年(明治22)に工場を設けました。工場長には梶常吉の孫にあたる梶佐太郎を起用し、1890年(明治23)には東京・銀座に進出しました。
その義弟である安藤重兵衛(二代目)はのちに社長となった人物です。研究熱心な性格で、イギリス留学をはじめ様々な出会いから西洋の文化や美術工芸の知識を身につけ、様々な七宝の技法にチャレンジしたとされています。 -
七宝焼が日本に伝わることとなったのは、工芸に対して研究熱心であった梶常吉が古事記に記された七宝焼に魅せられたことがきっかけです。1832年(天保3)にオランダ製の七宝皿を手に入れたことにより転機が訪れます。
梶常吉はその皿を観察した後に思い切って砕き、製法の秘密を知りました。素地は銅胎で、植線をもとに施釉されているという七宝焼の基本原理を学んだ上、数えきれない失敗を重ねたことで優れた作品を作り上げられるようになりました。
この技術は梶常吉自身によって林庄五郎、常吉の娘 いまに伝えられ、林庄五郎と梶常吉の孫にあたる梶佐太郎が直系の技術を伝える人となりました。そして梶佐太郎が安藤七宝店の工場長に招かれることになります。 -
大日本七宝製造会社は海外に進出し、大いに七宝焼の名声を高めましたが、1883年(明治16)のアムステルダム万国博覧会でヨーロッパの不況を受けたことをきっかけに規模を縮小し、1890年(明治23)に解散することになりました。
その時に創業十年目を迎えた安藤七宝店が大日本七宝製造会社を引き継ぎ、工場を新設して尾張七宝の伝統の火を守りました。 -
安藤七宝店の東京店は京橋区銀座町三丁目十番地、現在の松屋デパート前の一等地にある”借家住まい”からスタートしました。
”第一級”の店が集い、地価も一般人には到底手の届かないほど高価な銀座で店を構えることは、当時の商人にとって大きな夢でした。安藤重左衛門は外国人にとってのショッピングの場でもある銀座への出店は、海外へ七宝焼を広めていく足がかりになると考え、まだ若い義弟・重兵衛を名古屋に残して1890年(明治23)に東京出店に踏み切ったのです。
外国人に向けて英文での広告も出し、まずは注文生産の形だったところを2、3年後の1892年(明治25)には常時陳列して在庫を置くまでになりました。
自前の土地に移ったのは明治30年代ごろでした。それまでの間に海外販路の拡張などを通じて、安藤七宝店の事業は大きな飛躍をみせ、業界の中でも異彩を放つ存在に成長していました。それと同時に、名古屋でも重兵衛が新しい感覚の意匠と独自に編み出した数々の製品(浮上七宝、透明釉七宝、盛上七宝、玉質釉七宝など)を世に送り出していました。
名古屋の製造部門と東京の販売部門、それぞれの歯車がかみ合って安藤七宝店は反映していったのです。 -
安藤七宝店が宮内省御用達の栄光に浴したのは1900年(明治33)のことでした。当時、商工業者にとって”御用達”は”最高の勲章”でした。そのため、重兵衛名義で拝命した”御用達”はその精励努力が認められたものであり、業界だけでなく工芸での安藤七宝店の地位も不動のものにしました。
御用達は店の信用を裏付けると同時に、”命がけ”の仕事でもありました。それだけにやりがいのある仕事であったことも事実です。
御用達の仕事は新しい製品の納入だけではありませんでした。ご所蔵品で破損したものの修復も含まれており、他店の製品を完全な色・色調で元に戻すには、焼成の関係や釉薬の使い方などに微妙な差があって非常に難しいものであったそうです。しかしながら、こうした試練を幾度となく繰り返しながら安藤七宝店は自らを大きく成長させていきました。 -
日清戦争、日露戦争の二つの大戦を勝利で飾ったことで上がった景気は一時的なものに過ぎず、七宝業界も不況のダメージを負うことになりました。当時の七宝業者は製造・販売・釉薬製造・下地・錺業・金属線業など業種が細かく分かれ、全国各地に散在していました。中には粗製濫造で七宝業界の信用を失う業者や安価で生産を強要する商人もおり、七宝業界は尻すぼみの状態になってしまいました。
やがて不況でそのような業者が淘汰され、一定の水準に固まりました。この頃から七宝産業の中心は名古屋に移り、海外への輸出品が8割を占めるようになります。
しかし、不幸なことに1891年(明治24)の濃尾地震によって尾張地方は大打撃を受けます。名古屋にある安藤七宝店は幸いにも被害は軽く済んだため、重左衛門は特に被害の大きかった尾張西部の七宝業者の救済に乗り出しました。これによって七宝業界は息を吹き返しましたが、粗製乱造に走る業者もあり、七宝焼の名を落としかねない状況でした。それでは七宝焼の明日はない、と考えた重左衛門、重兵衛兄弟は斬新な意匠を採用することで業界をリードし、一級品に力を注ぐことで七宝焼を守りました。 -
商売と芸術の二足のわらじは海外販路の拡張によってもたらされました。当時は名古屋に港がなく、輸出は困難でしたが、安藤七宝店は自ら売りにいく精神で、海外の博覧会を通じて商品の売り込みを行いました。
”安藤七宝”の製品が広く世界に知られるきっかけになったのは、1900年(明治33)のパリ万国博でした。この機会をとらえた重左衛門は1901年(明治34)に重兵衛をイギリスに呼び寄せ、海外の商業事情を肌で知らせ、この経験を生かして新製品を生み出すようになりました。一方で重左衛門は1904年(明治37)にアメリカ・セントルイス=ルイジアナ万国博に出品し、自らも欧米事情を知るために再び太平洋を越えました。その後ヨーロッパにも渡って見聞を深めました。
1910年(明治43)のロンドンで開かれた日英博覧会ではグランプリに輝き、このほかにも海外博において数多くの”勲章”を受け、海外の信用を高め、販路を大きく開いていきました。 -
安藤七宝店がこれまで名古屋店を構えていた玉屋町は商人の街で一等地でしたが、”製造工場”向きの土地ではなかったため、1904年(明治37)に矢場町に移転しました。
大正期の七宝業界は一応の安定勢力ではありましたが、個別では決して平和な時代ではありませんでした。1916年(大正5)第一次大戦のさなかには名古屋の製造戸数わずか7戸となり、輸出不振、粗製乱造により衰退していきました。安藤七宝店は1913年(大正2)に早川芳太郎を工場長に迎え、製品の製造に力を入れることで国内外の販路拡張を目指しました。1914年(大正4)上野公園内で開催された東京大正博では最も目立つ正面の4コマを取り、陳列面積も最高、金牌という名誉も受けました。
一方で海外での活動も活発で、アメリカ・サンフランシスコで開かれたパナマ太平洋博覧会では重兵衛が名誉大賞を得て帰国し、新たな製品の改良に意を注ぐことになりました。日本観光土産品として安藤の七宝焼は代表的なものになったのです。
海外販路の拡張に忘れてはならないのは、安藤善親の力です。1885年(明治18)に福島県に生まれ、パナマ太平洋博覧会で安藤重兵衛と出会い、語学力と人柄を見込まれて1920年(大正9)に婿養子として迎え入れられました。ニューヨークでアメリカ支店の開設に奔走し、1926年(大正15)にはフィラデルフィア万国博にも七宝業者出品組合代表として参加しました。主に東京で国内の販路拡張に励み、鎚起七宝を始めるアイデアを出すなど並々ならぬ才能を示した人物です。
安藤七宝店は個人商店のやり方からより合理的な経営に変えるため、1925年(大正14)に安藤七宝店は合名会社としての再スタートを切りました。名古屋を本店、東京を支店としてスタートしました。
組織の組み替えによって経理の合理的運用ができるようになり、個人商店から近代経営へ大きく一歩を踏み出しました。 -
昭和初期の安藤七宝店は世界的な不況、経済界の混乱をよそに、平穏な明け暮れでした。美術工芸品として安定した地位を占めていたため、金融恐慌の影響をほとんど受けず、1927年(昭和2)には天皇陛下の勅使を本店工場にお迎えするというこの上ない光栄な機会もあるほどでした。
1928年(昭和3)には善親の発明により、銅地金を内側から鎚で文様を打ち出し、盛り上がった部分に釉薬を、地の部分に着色を施す鎚起七宝を世に送り出しました。1930年(昭和5)には御大礼奉祝のために天皇・皇后両陛下に名古屋市から「金銭七宝瑞象文置時計」「金線七宝祥華文鏡台」が献上され、名古屋市からは宮中への献上品は安藤の七宝焼という定評が定まりました。
一方で、東京支店は木造で小さく拠点としては貧弱という問題があり、1930年(昭和5)に耐震耐火鉄筋コンクリート造地上3階地下1階の”七宝ビルヂング”が建設されました。深刻な不況時ではありましたが、安藤七宝店としては今後の成長が見込めるという重兵衛の確固たる自信のもとに建てられました。 -
安藤七宝店は海外への出品に積極的な姿勢を崩さず、J.ANDOの名で世界に広く知られました。1933年(昭和8)アメリカ・シカゴで開かれた万国博覧会への出品や同年12月23日に皇太子明仁親王のご誕生を祝って名古屋市から宮中への献上品を製作するなど、目覚ましい活躍をしました。
しかし、1937年(昭和12)に名古屋汎太平洋平和博覧会で名誉大正を受賞したことを最後に、原料の銅の使用制限と奢侈品の製造・販売を制限する七・七禁令という大打撃を受けて、停滞・低迷を余儀なくされました。七宝業界は相次いで廃業し、安藤は七宝焼の灯を守っていかなければならない立場となりました。
こうした情勢のもとでも伝統のある美術工芸品を保存し、技術を継承していくための手段が講じられ、名古屋では1943年(昭和18)に「株式会社七宝技術保存会」が設立されました。安藤七宝店はそのうち4分の1を超える株を持つことになり、非常に大きな負担となりました。
当時は軍需でなければ産業とされなかったため、高率の物品税にも苦しめられました。120%にも上る負担率を振り返ると、技術の火種を残すことができたのは奇跡とも言えます。追い討ちのように空襲によって大都市は破壊され、名古屋本店は焼失して在庫品全てを失い、東京の七宝ビルヂングも3階が焼失するという、終戦時は手足がもがれた状態でした。息をひそめてひたすら耐え、新しい時代に期待するしかない状況でした。 -
1945年(昭和20)に太平洋戦争が終戦し、敗れた日本は大きな傷跡とともに平和が訪れました。再び七宝焼が脚光を浴びる時代が訪れたため、重兵衛と安藤家に婿入りした武四郎は間髪入れずに復興に立ち上がりました。そのスピードは目覚ましく、12月8日に本店工場の再建に着工、1947年(昭和22)には開店披露となりました。しかし、自由販売自体は認められなかったため、商いは芳しくありませんでした。
この時の安藤七宝店は七宝焼の将来を考え、公共的性格を持つ株式会社への移行を決断しました。技術を個人が所有することで滅びないよう、七宝業界の健全な発展を祈って立ち上がったのです。株式会社は量産体制を必要とするため批判も多くありましたが、誰しもが手にすることができる普及品も必要だという確信があっての決断でした。 -
経営・生産の両面で本格的な軌道に乗るまでには6年の長い年月を要しました。駐留軍兵士たちによって「七宝ブーム」はあったものの、闇取引が横行し多くの業者が正しい進路を見失い、品質を低下させた不幸な時代となりました。そんな中で正札価格を徹した安藤七宝店は業績不振に陥りました。
それを立て直すため、1951年(昭和26)に久保寺良吉氏を取締役社長に選任し、武四郎は支配人となり、この決断が功を奏して着実な成長を始め、見事混乱期を脱することができました。
同じ頃、新しい文化国家の建設を目指す政府は伝統工芸技術の育成保存に積極的な姿勢を示しました。1951年(昭和26)5月に文化財保護委員会は無形文化財に対しての助成措置基準を決定し、公布しました。1952年(昭和27)3月には無形文化財の一つとして七宝技術が指定されました。七宝業界は継承する人材を確保することが困難になっていたこともあり、時宜を得た出来事でした。この時初めて技術書として保存されることになりました。 -
第三代社長には1954年(昭和29)11月に安藤武四郎が就任しました。武四郎「新規需要を開発し、社業を発展させること」「世界に誇れる技術力を保存し、さらに高め、永久に伝えていくこと」の二つの両立をこなす適任者として発展させていくことに貢献しました。
その好調の波に乗るように1957年(昭和32)3月30日には「記録作成の措置を講すべき無形文化財」の技術者として社員5人が選ばれました。商業の面でもトロフィー、カップや古い技術に新しいデザインを取り入れた製品などが開発され、七宝を身近に感じていただけるようになりました。販路の拡張も積極的に行われ、直売店の開設や「七宝変遷史展」が開催されました。
この時代には本来の七宝の他に釉薬の特色と銅素地の面白みを生かした「彩釉七宝」、民族の香りをもつ「鋳鉄七宝」、描画的な味を出す「エマイユ七宝」、彫刻の美と釉薬の色沢が程よく融和した「レリーフ七宝」などが開発されました。
一方で伝統の保存も忘れませんでした。1959年(昭和34)春に皇太子殿下の御成婚を機に「舞楽青海波文様大花瓶」一対を製作。これは伝統技術の枠を余すことなく伝える大作業として意義のあるものになりました。1961年(昭和36)には「七宝の技術保存記録」を公開するなど、七宝焼を身近なものにするための動きが多くありました。当時、技術公開の抵抗感は薄れてきていたものの、好んで公開する必要のないものとされていましたが、安藤七宝店はあえて公開する道を選びました。
これによる自信はより優れた製品を作り上げていく力となりました。1968年(昭和38)大阪市に営業所を開設。1965年(昭和40)は名古屋第二工場の新設工事が完了。努力が功を奏して大きな実を結ぶ結果となりました。
1968年(昭和43)11月に完成した皇居新宮殿の装飾には安藤七宝店が製作した作品があり、北溜の壁面を飾っています。この作品は正倉院宝物である「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」の拡大模本です。着工から完成には約21ヶ月の歳月を要しました。他に類を見ない珍しい鏡体であったため、現代の七宝技術の枠を結集して一枚の板でまとめることに非常に苦労しました。作るからには極限を極めようとする技術者の常が結果を結び、見事に完成した本作品は、納入に先立って一般公開された際には人々に深い感銘を与えました。 -
1983年(昭和58)には第4代社長として安藤重良が就任しました。1989年(平成元年)には「銀座七宝ビル(地上8階、地下1階)」が完成し、安藤七宝店東京支店及び銀座店が入居しました。
平成の安藤七宝店は七宝に限らず日本工芸の継続に尽力した時代となりました。
1993年(平成5)に第六十一回伊勢神宮遷宮造営に際して「七宝据玉」を製作し、1998年(平成10)には半田石橋組山車「青龍車」七宝四本柱復元修理、2005年(平成17)京都迎賓館 握手・衝突防止サインを受注製作するなど、国や自治体から復元等の特殊案件を請け負いました。これらは長年に渡り受け継いできた技術力で対応しました。
また、安藤重良は2015年(平成27)から2019年(令和元年)までの期間「伝統的工芸品産業振興協会」の代表理事へ就任し、業界団体の役職に就くなど日本工芸の伝承に貢献しました。1995年(平成7)には尾張七宝が国の伝統的工芸品の指定を受けるに至りました。 -
令和の時代に入り、七宝を含む日本の工芸は業界の縮小で事業継続が困難な状況となりました。2015年(平成27)に第5代社長に就任した安藤重幸は、会社資産の組み直しを行い、経済的な安定を作り出しました。
一方で、技術継承の面でも困難は訪れました。後継者不足によってこれまでに培われてきた素晴らしい技術が途絶えてしまう危機に直面したのです。そのため、2019年(令和元年)に老朽化していた本社工場を御器所から南区弥次ヱ町に移転した際に新潟燕工場も弥次ヱ工場に集約しました。これにより生産の内製化を図り、合わせて次世代の技術継承の人材を積極的に採用することで尾張七宝の伝統の火をこれからも絶やさないよう努めています。また、需要がなくなれば七宝を守り抜くどころではなくなると考え、現代に求められる商品開発も積極的に行っています。
2022年(令和4)に銀座店を銀座センタービルに移転。2023年(令和5)には、およそ120年に渡り営業を続けてきた本店所在地である名古屋クロイゾンスクエアを売却し、名古屋本店を名古屋平和ビル1階に移転し、現在に至ります。